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2012年11月21日水曜日

イェリネク3部作、「レヒニッツ」「光のない。」「光のないⅡ」「ゲイ・ロメオ」について



仕事に取りかかる前に、フェスティバル東京の他の演目総括をざっとやってみる。話題のノーベル賞作家、イェリネクElfriede Jelinek三部作は、もうダントツで新橋の各スポットを彼女の朗読が入るFMラジオの音声を聞きながらストロールする企ての「光のないⅡ~エピローグ? PortB」Kein Licht2/Port B。この街へ出よう系は、ヤン・フートがアート界で先鞭をつけ、飴屋法水なども行ったが、当て所が正しいととてつもない強度が生まれる切り札のひとつ。
 まあ、それだけわかっていても、今回、イエリネクElfriede Jelinekのあの跳躍が多く、主格が転倒し、脳のシナプスに去来する言葉を自動書記のように書いた難解なテキスト(震災と原発事故に触発された作品)を読むには、最高の演出。最初の指定場所はなんと、東電本社をはさんだビル谷間の小公園。そのベンチから午後の光に輝く本社と青空、スマホをいじりながら通り過ぎる若いサラリーマン、そして、自分の耳に届くテキストの三位一体によって、のっけから得も言われぬ情動に突き動かされてしまう。

原発事故を起こしたシステム自体の本拠地=サラリーマンワールドである新橋で選ばれたいくつかのビルの空室は、すでに昭和の香りを残しつつもはやノーフューチャー。そこに佇むだけで、体感として、「私たちが経済の繁栄と共に選んできたものの本質」がぐいぐい押し寄せて来るのだ。そうなると、イェリネクElfriede Jelinekの言葉は「自分の中に埋没しているたくさんの想いを引き出すトリガー」となり、その回路が回り出したとたんに、世界はまさに違う顔を見せてくる。

配られたポストカード地図の裏には、被災事故地での報道写真が印刷されており、そのシーンが新橋のいろいろな場所で再現されているという構造にもなっている。それは私たちが事故に対して情報のよすがにしていたそういった「事実を伝える写真や映像」は本当に事実を伝えているのか? ということなのだろうが、この部分は現場ではどうでもいく、挿話的に思えた。というか、場所の地霊とテキストと観客との一本勝負ですよ、これって。

 とはいえ、新橋という街は歩いてみると面白いねぇ。不謹慎にも、良さそうな寿司屋料理屋を見つけ地図にメモする私。こればっかりは、止められないんだよねぇ(笑)。

 第二次世界大戦末期、対独協力者だったオーストリアの伯爵夫人邸で、バーティーの余興として大量のユダヤ人虐殺があったという実話を元に描かれた作品をヨッシ・ヴィーラーの演出とドイツの役者で演じた「レヒニッツ」Rechnitz(Der Wurgeengel)は、字幕翻訳が「普通そういういい方を人はしないだろう」という硬いもので、ちっとも言葉を追えない。

と思いきや、バンフのコメントで翻訳者が「翻訳を解りやすくするとどんどん恣意が入り、違うものになってしまう」といったような危惧を述べた上の一種、批評的な方法だと知った。うーん、わかるけど、この舞台の場合はイェリネクの言葉は、記号のような了解のみでこちらとしてはよかった。役者がその言葉の意味を発する表情をこちらとしては捕まえたかった。

今回はイェリネクElfriede Jelinekありきでの話なので、先の報道写真の件と同様、演出側はそこにもうひとつ批評性という名のクリエイションを足したんでしょうねぇ。どちらにしても、目で追う字幕はキツく、本当はヘッドホン同時通訳がほしかったですよ。




あともうひとつ、そもそもこの芝居を日本でやることの今日的な意味は、もう、戦争犯罪ですよ。オーストリアは戦後、日本と同じように、戦争責任をあやふやに免れた国であり、ご存じ今、日本は竹島問題等でそのことの決着を迫られているからだ。これ、ドイツの俳優がそのユダヤ人虐殺の悪玉を堂々と演じているところに、彼の国の戦後処理の徹底さかげんが伺えると同時に、パンフにこのあたりの言及がひとつも無いのは、ちょっと面倒を避けたかな、という印象。

(地点)の代表である三浦基演出の「光のない。」Kein Lichtは、もし、今回の全体テーマが批評ということだったならば、最初に繰り広げられる、「私」「あなた」という役者たちによる言葉遊びのような長い呼びかけの導入から恐れ入った。というのは、イェリネクElfriede Jelinekテキストで繰り返される、この私という主格とあなたという存在は、いつも何を差しているのかが不明瞭だからだ。

いや、その前に先ほどの翻訳という意味で言えば、日本語での私とドイツ語のich、あなたとSieは感覚が違うし、そもそも日本語ではあまり主格を立たせない言語でもある。その翻訳問題を最初のシークエンスで露払いするセンスは素晴らしい。まあ、あと役者ね。あの長台詞と集中力はいったいどのようなメソッドによって可能なのかしらん。そして、もの凄い美術とライティング。本当に今、演劇回りに才能は集結していますね。

シンガポールのダニエル・コックDaniel Cockの「ゲイ・ロメオ」は、愛らしい舞台。ゲイである本人の日常を綴った小さい小冊子が配られ(これがまた雑貨っぽくてカワイイ)、そのテキストを指示の通り読みながら、舞台ではインタラクティブに映像やモノが展示され、ダニエルが観客に語りかけ、最後にデートした男性たちへのプレゼントとしてポールダンスを披露する、というもの。

ここに色濃くあるのは、個人的な「してもらって嬉しい。してあげたい」という根源的なコミュニケーションの熱量と信頼、そして快楽。筋が通った美しいバレエ。こういう信頼感と明るさは、ゲイのみなさん特有なもので、それはエンターテイメント商業演劇の通奏低音たるところ。ご存じの通り、それは批評の標的でもあるので、こういうタイプのパフォーマンスは、ゲイ、というニッチにしか花開かないのだな、と痛感。「ビッチの触り方」の著者としては、こういう表現をヘテロの女や男がやった場合に、どう変容するのか? を見てみたいものです。
 http://festival-tokyo.jp/





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2012年11月19日月曜日

2012年11 月19日 (月)


ボツドール「夢の城」の再演。いやー、演劇でこんなにカッコいい表現が可能なのかと、シビれた。このセンスと腕力は、ロックによく立ち現れるが、演技というこっぱずかしいDNAがある演劇では非常に難しい。コレを何で初演時に観なかったのかという大後悔に駆られた、時代と表現が切り結んだ最大級の傑作!!

ガングロ、センターガイ、オレオレヤンキーなど、最低な若者男女が共同生活する汚部屋での一昼夜の"様態"を現した無言劇なのだが、その設定自体はそこから読み取れるものがわりと簡単に想像できてしまう紋切り型。たとえば、日本お得意の閉塞社会も描けるだろうし、そこから、オウム真理教にも繋がる共同体の芽を見る、とかね。

しかし、この舞台はその"批評に対して安定的な設定"を超えて、観手に身体的とも言える想像力を喚起してくる。起きて寝て、排泄して、食べて、後はセックスセックス、そして、ちょっと働き、四六時中続くテレビゲームにマンガ。という行為が幾度となくリフレインされるのだが、それが演劇的な誇張ではなく、ひょっとすると、こたつにへばりつくだらだらした正月のような、我々の身体感覚の延長線上にその、怠惰で面倒くさがりやで、生きている喜びなど全くない荒廃した生活があることが、身につまされていくのだ。批評の多くはこれを世代論として安直に片付けるけれど、およそ、日本人全世代の内なる地獄ですよ。面白いのが、あの汚部屋動物生活がユートビアにも見えてきてしまうところ。まあ、3.11の日本がそういうことなのかもな、と。

こいつらの生活から、乱交セックスを抜いたら、このおぞましさは、日本の一般家庭じゃないのか、という山本直樹のマンガにもある視線の"一般化"が、非常にスムーズに行われているところは、素晴らしいの一言。演出家の三浦大輔さんはは非常に力量がありますね。ベルリン公演が大喝采だったというのもよくわかる。ドキュメンタリーの手法云々と評されているらしいが、私はウディ・アレンと似たものを感じた。どうしたら、観客は自然とこのツボに入ってくるか、ということを、非常に試行錯誤した上での技術と演出。

ラスト近くに女が意外にも布団の中でひとりむせび泣く、という問題シーンが出てくる。人間らしい感情が、唯一、表現された場面だが、彼女の役柄が唯一食事を作ったり、財布に大金を持っていたりする、唯一社会性のある太い存在だっただけに、「やっぱり女、世情に絡め取られるな」と思った瞬間、それを聞いて起きてしまった男ふたりが、スケートの滑りマネをするオチが圧巻。重くて深刻なことが大嫌いで遊戯性に逃げる男。これだけで、一大テーマのような男女の本質論がラストの方に挿話的に立ち上がり、それまでの本篇と同様の強度がある、という構成も、ラスト近くに謎の不協和音を残すマルティノンの交響曲(さっきたまたま、聴いていた)のごとくに超カッコよかった!!

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2012年11月9日金曜日

爆クラ <第17夜>「 クラシックにおけるグルーヴ問題」ゲスト:斎藤ネコ(ヴァイオリニスト、作曲家、編曲家)


Pp_saito



今回は、爆クラ始まって以来の大問題に挑戦します。


 それは、クラシック音楽におけるグルーヴ感、というテーマ。わかりやすいビートがある、ジャズやポップスと違い、クラシック音楽には、一般的にはあまり”ノリ”のようなものが存在するとは思われてはいません。しかし、ご存じウィーンフィルが、ヨハン・シュトラウスのワルツを演奏するときには、レゲエもびっくりの過激な突っ込みを披露するがごとくに、名演奏家と呼ばれる人々の演奏、そして楽曲そのものには、独自の”間”やドライブ感といったような、いわゆるグルーヴ感覚が確実に存在しているのです。

 最近はジャズでもクラシックでも、ヴィルトーゾ(超絶技巧)流行りですが、技に耽溺するととたんに薄まっていくのがグルーヴの宿命でもあり、現在の心ある演奏家たちは、いろんな形でその両立を図ろうとしていますが、これがなかなかに難しい。グルーヴはすなわち、味であり、ゆらぎであり、個性でもある。

 昔はこんなにグルーヴィーな演奏が在った、という例から、「コレじゃダメでしょ」という例まで、クラシック畑ながらポップスにも通暁する豊かな音楽経験を持つ、斎藤ネコ氏とともに、クラシック音楽を”グルーヴ”という観点から紹介していきます。

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Yuyama Reiko presents
爆クラ  <第17夜>「 クラシックにおけるグルーヴ問題」

11月13日(火)

音楽実験室 新世界【六本木通り沿い。西麻布と六本木の間、ディスコa-lifeの並び】

door open 19:15
start 20:00

料金;¥3,000+ドリンクオーダー
¥1,500+ドリンクオーダー(学割)

予約をぜひ!



ゲスト
斎藤ネコ(さいとうねこ)
1959年5月29日生まれ(B型)東京芸術大学音楽学部作曲科卒業。数多くのCM音楽や、アーティストの作曲、編曲、アルバムプロ デュースなどを手がける。守備範囲はクラシックからハードロックまで 幅広い。おじいさんになっても子供でいられるような人生を目指し、飲酒鑑賞に 適した音作りを心がけている。多分.....。2009年4月からNHK教育テレビ「おかあさんといっしょ」 のオープニングテーマ、人形劇等の音楽を担当し ている。
主な作品・・・新国立劇場「城」、世田谷パブリックシアター「審 判」、シアターコクーン「黴菌」、群馬交響楽団「100万回生きたねこ」、南こうせつ「CONCERT IN 武道館」、椎名林檎「Ringo  EXPo08」、齊藤美音子・独舞「てすり」日本作編曲家協会元理事 日本音楽著作権協会正会員ホームページ:http;//saito-neko.com
最近NHKテレビ「おかあさんといっしょ」9月の歌「雲の手紙」、NHK教育テレビ「POZZIE」、ドラマ「イマジン」(関西テレビ系)、 志太のミュージカル'99「TREASURE」、合唱曲「ピアノの音」、住友VISAゴールドカード、フォルクスワーゲン「パサート・ワゴン」他、CM音楽多

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